2013年03月07日
第15回 映画 「先祖になる」

おはよー、ひろびろ空にこだまする声に、どこかから返事がかえってくる。表情は晴れ晴れ、すがすがしい朝のはじまりに相応しく、まさか視界いっぱいに映るのが瓦礫の海だとは信じられないような。つらい気持ち、かなしい気持ちがないわけはないのに。住み慣れた場所が、集落ごと一瞬にして流されて失われ、愛おしいひと、親しいひとたちの多くが、別れを告げる間もあたえられずに、呑み込まれ、温かみをうしない、あるいは、跡形ものこさず消えてしまったのに。
けれど、直志さんの日常はしぶとく淡々といくらか明るささえおびて営まれ、はげしく散乱したままの家のなかでの食事も、キャンプ生活でもしているかのような軽やかさ、傷んでしまったけれど、気仙大工の手になる家屋のその造りの技術の確かさを誇る姿には、どんな災害にも屈しない、というか、屈することなどおもいもつかないとでもいうような、無邪気なほどの強さが垣間みられて、どんな悲惨な状況であっても、希望を見据えてまっすぐ突き進んでゆけば道はひらける、そんなきれいごとのような物語が、真実味をおびて立ち上がってきて。
「迷いがないんですよ」直志さんをサポートする剛さんの言葉が、呆気にとられるほどの聡明さ。型にはまったマニュアルを押しつけるかのような行政サービスの空虚さを突く鋭さは頼もしく怖く、けれど直志さんの物腰はどこかやわらかい、自分の信念と希望をはっきり主張しながらも、相手方の立場をもおもいやるような励ましの笑顔が。
息子さんは、消防団員で、お年寄りをたすけようと坂を下ってそして、間に合わなかった。
仮設住宅にはいかない、このおなじ場所にふたたび家を建てるため、とどまる。家族さえもが賛同を迷うほどの言動だけれどでも、戸惑いつつも彼の視点に寄り添えば、この、瓦礫だらけの町の跡形も、いつか辛抱づよい努力の果てに、生命力にみちあふれたひとびとの集う場所に甦るような気配がかんじられて。だからきっと、景色というのは、見つめる側の心意気しだいで、惨状に映るかとおもえば、なにかが始まる希望にみちた原野にも映るのでは、それは残骸などではない、種をまけば、きちんと実りがもたらされる生まれ変わった土地であるように。
多くの、たいせつな生命が奪われても、だからといって町がなくなるわけではない、町を愛するひとびとがその愛を原動力に生き抜くことをやめなければ、祭りだってできる、笑顔だって弾ける、あたりまえの日常がおとずれる。山に入ればいまだって二十代、と笑う直志さんが、やわらかな日射しを浴びながらお茶をすする至福のとき、世界のはじまりの瞬間を見たような。
木を神として敬う姿勢は、どこか『鬼に訊け』に通じるような、なにかきっと強いパワーがたぶんきっとそこにある。
先祖になる 2012年日本 池谷薫監督作品
公式サイト http://senzoninaru.com/
Posted by eしずおかコラム at 12:00